聞法

聞法=仏法を聴聞(聞く)すること。
では何故仏法を聞く必要があるのでしょうか?。

無宗教だと言う人が居られます。

「宗教」とは、自らが生きていく上で、「宗」(むね・要・依り何処・羅針盤・ライフナビゲーション)なのですから、「無宗教」というのは違うと思うのです。「特定の宗教ではなく、まぎれもなく自分を信じているのです。それは自分は正しく間違っていないと思い信じているのではないでしょうか。

裁判所で証人として証言する経験がありますが、証言する前に宣誓をするのですが、「自らの良心に従って真実を述べ・・・・」と宣誓します。その「良心」とは、善を良しとし、悪を退ける、個人の道徳意識、とあるのです。そのことは自分を信じているということとそれ程変わりないのでないでしょうか。
どうしょうか?。本当に自分は正しいのでしょうか?、間違ってはいないのでしょうか?。

真に自らが正しく間違っていないのならば、人も世間も自分の思いの通りに大方いくのではないでしょうか?しかし実際そうはいかないですよね?。

自分が正しく間違っていないと言うところに立ち続けれは、宣誓文にある如く、自分を善とするのですから、自分の意見に反する人は悪とし退けることが起こるのではないでしょうか、そして踏みつけ傷つけていくのではないでしょうか?。
人間とはそういうものを孕んでいるとおもうのです。ですから聞法は大切なのです。そして聞法は自らの人生の羅針盤でありライフナビゲーションなのだと思うのです。

金丸和張


Q&A

Q  あるご夫婦の会話。「お前は何時もお寺に行っているが、少しも立派にならないのはどう
   いう事だ?」

A  お寺に行って聞法を重ねれば立派な人間になると思われておられればそれは間違いだ
   と申さなければなりません。私たちは自らを良き者と認識しているところが盲目的にあり
   ます。ですから大切な人に対してさえも自らの都合理屈にて傷つけ悲しませたりすること
   があるのではないでしょうか。
   聞法を重ねるということは自らは愚かな身だと言うことを知らされ続けることです。
   そしてこの愚かな身に目を背けずに、その事実に真向かいになることこそ誠実に生きる
   と言うことでしょう。

   次の言葉は親鸞聖人最晩年88歳の時に書かれた消息(末燈鈔)にある言葉です。
     故法然上人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と
     候(そうら)いしことを、たしかにうけたまわり候いし